カテゴリー: 経済・社会

QBHouseと労働生産性

意味もなく高いだけのサービスを使う人間はいない!激安店に客が奪われるなら、自社サービスに付加価値を付ける努力をしよう。

上記記事を読んで思い出した。

一昔前に野田総理大臣がQBHouseで髪の毛を切っていることが報道されて、同じように批判されていた。曰く、デフレを助長しているとか、なんとか。

では、果たしてQBHouseのスタイリストさんはブラックで低賃金な環境で働かされているのだろうか?

(QBHouseをご存じない方に説明すると、QBHouseは、お家でもできるシャンプーや顔そりはやってくれない代わりに、カットのみに特化することで、たった1000円(税抜き)で散髪してくれる理髪店だ。)

ここでQBHouseの労働生産性を見てみよう。QBHouseはカットのみに特化することで、たった10分の短時間で客一人をさばく。そのため、1時間あたりの売上は6000円だ。

一方で、普通の理髪店はどうだろう。シャンプーや顔そりなんかもやるのでだいたい1時間、長い店で2時間程度かかることもある。料金は3000円〜4000円というところか。仮に短い方の1時間で終わったとしても、1時間あたりの売上は3000円になる。QBHouseの半分しかない。

さらに普通の理髪店は数名で一人のお客に対応することもあるし、お客がなくて暇な時間帯もよくある。一方でQBHouseは、これまでの私の経験上の話だが、いつも待ち行列ができていて、フル稼働している。

こうやって比較するとはたしてどちらがブラックで低賃金な環境だろうか。労働生産性が必ずしも労働環境とリンクしている訳ではないかもしれないが、明らかにQBHouseの方が有利なのは間違いないだろう。

日本のGDPは世界3位だが、一人あたりの労働生産性はOECD加盟34カ国中第21位だ。今の日本に必要なのは、QBHouseのようにイノベーションを起こして、少ない労力でよりよいサービスをより安く提供するビジネスモデルを、新たに生み出していくことなのだ。

だから、我々は消費者の立場として、意味もなく高いだけのサービスを利用することは、そのような旧来のビジネスモデルをいたずらに延命させるだけであり、新たなイノベーションを阻害してしまうことになってしまうので、極力避けなければいけない。

もちろん、ゆったり1時間理髪店で過ごしたい人は、そうすればいい。私は苦痛だからQBHouseに行く。

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解雇規制と自分の価値

日本経済の足を引っ張っているのは強すぎる解雇規制だという意見がある。ロクに仕事もしないのに給料は高い中高年の社員を解雇できないため、若い非正規社員ばかりが増えるという構図。いずれ終身雇用はなくなっていくのかもしれない。

もし欧米のように企業がその業績に応じて自由に社員を解雇できるようになれば、企業は必要なときに必要な人材を労働市場から調達するようになるだろう。そうなれば同一職種同一賃金ということも実現されるだろうし、仕事の出来る人・出来ない人の属性がそのまま給与に反映されるようになるだろう。

翻って自分は今の給与に見合う価値を生み出せているだろうか。労働市場の荒波に放り出された時に、他の労働者との競争に打ち勝つだけの能力を持っているだろうか。気がつけば既に35歳を過ぎて久しい。35歳と言えば転職できる期限と考えられている歳だ。若い人と横並びで比較された時に、自分には何がアピールできるだろう。

あるいは、起業して、会社に雇われなくても一人で稼げるようにできないだろうか。アプリやWebサービスでも作って一山当てるとまでは行かなくても、日々の食い扶持に困らないぐらいは稼げないだろうか。フリーランスとして生きていくのはもっとしんどい。

そうやって考えてみると、自由に解雇できる世の中は自分には非常に厳しいものだという事がわかる。今の自分はむしろ解雇規制に守られている立場なんじゃないかという気がしてくる。

きっと世の中の大半の人から見れば、自分は既得権益側の人間なのだろう。自分では気が付かないうちにそうなってしまっていることに、いささか驚く。

次の選挙で橋下新党は解雇規制をなくすという政策を掲げるかもしれない。その時に自分は誰に投票すべきだろう。

それよりもまずは、自分の価値を高める努力を怠らないことが大事なんだ。そんなことはわかっているけれど。

リーダーを育てる

今年の5月から娘を新しい英会話スクールに通わせる予定だ。

これまでは大手の英会話スクールのキッズクラスに通わせていたのだが、英検やTOEICで点数を取るということに主眼を置いているような感じで、その教育方針にいまいち共感できなかった。ちょうど春から小学校なので、別のスクールに変更するいい機会だと思っていろいろと探していたところ、近所に自宅で英会話を教えている小さな英会話スクールがあるということを聞き、早速体験レッスンを受けてみることにした。

体験レッスンは実際に授業を受けている生徒に混じって、一緒に参加するという形式で行われた。娘はこれまで他の学校に通っていたので、それほど難しいこともなく授業に参加できていた。非常に充実した良いレッスンだった。

授業の中で特に感心したのは、「リーダーを育てる」という観点が意識的に取り入れられていることだった。

例えば、かるたのゲーム。誰か一人がリーダー(親)になってテーブルの上にたくさん並べられたいろいろなカードの中から一枚の絵柄を英語で言う。(例えば、「Penguin!」とか)すると、残りの生徒がその言葉を聞き取り、その絵柄が描かれたカードを取る。そういうゲームだ。先生は基本的に見てるだけ。リーダーも生徒がやる。

ゲームをやっていると、どうしても二人同時にカードをたたき、奪い合いになるケースが出てくる。そんな時に、どちらが先に手を伸ばしたか判定をするのはリーダーの役目だ。判定が難しければ二人でジャンケンしてもいいのだが、ジャンケンするかどうかを決めるのもリーダーの役目だ。

ゲームの審判役だけではない。他にも、休憩時間に入る前にすべて片付けが終わったかどうかをチェックする役割があったりする。チェックする人から「ちゃんと片付けが終わった」と認定をもらわない限り、その人はおやつが食べられない。授業の中にさり気なく、でも意識的に、生徒自らが「決断を下す」という場面が随所に組み入れられている。そして、その決断はリーダーにすべての権限が委ねられており、先生もそれに従わなければならない。

これまで自分はそんな授業を受けたことがなかったので、すごく新鮮な感じがした。娘がこれまで通っていた英会話スクールでもそんな要素は取り入れられていなかった。日本ではあまりそういう「リーダーを育てる」、あるいは、「権限を委譲して決断を下させる」という訓練が行われていないのではないだろうか。

海外ではそういう訓練が小さい時から行われているのかもしれない。その教室で英会話を教えている先生は、母国のカナダでも教師をやった経験があるようで、教育という面ではプロなのだろうと思わせる所があった。大手の英会話スクールだとどうしても、たまたま別の用事で日本に来た外国人がバイトで教えているような人が多いように思う。そうなると、教育カリキュラムや教え方のマニュアルがあって、それに従って画一的に授業をすすめるだけになってしまう。「リーダーを育てる」などという要素を取り入れる余地が無い。

あの体験レッスンを受けて、自分も娘・息子と接する際に、「リーダーを育てる」あるいは「自ら決断を下す」という観点を日常生活の中に取り入れていこうと思った。

が、なかなかいい場面が思いつかず、今のところまだ何もできていない。

ホメオパシーに見る新聞の影響力

最近のホメオパシー関連の動きを見ていると、今だに新聞の影響力というのは非常に大きいのだなぁということを改めて感じる。これだけネットが普及してブログやTwitterなどがもてはやされているが、社会的な影響力という意味ではまだまだ新聞にはかなわないようだ。

今回ホメオパシーに光が当たった最初のきっかけは、K2シロップを与えないことで乳児が死亡したとして助産師に対して損害賠償請求の訴訟を起こしたことを読売新聞が報じたことだ(既に該当ページは削除されている)。これが今年2010年7月9日。その後しばらくして、8月11日に朝日新聞がホメオパシーに関する正確かつ公正で詳細な解説記事を掲載した。そこから流れが一気にホメオパシー反対に傾いて行ったように感じる。そして、8月24日に日本学術会議からホメオパシーに関する会長談話(PDF)が決定打を与えた。

ネット上ではK2シロップの訴訟後に日本助産師会が発表した声明(既に該当ページは削除されている)に対してすぐに厳しいツッコミが入っていた。というか、はてな界隈では以前から代替医療の問題点が指摘され、論争になっていた訳で、K2シロップの訴訟は特に真新しいものではなかったように思う。

そんなホメオパシーに毒されていた助産師会だったが、日本学術会議の談話を受けて、8月26日に声明を発表し、ホメオパシーを完全否定(PDF)した。

ここまでの流れを見ていくと、新聞に対する社会的影響力というものがいかに大きいのかというのがよくわかる。ネット上でいくらホメオパシーを批判しても、それは玉石混交な意見のひとつにしか捉えられず、「お前はオカルトだ」「いや、お前こそオカルトだ」という議論以上にならない。それが、新聞がひとたび報道するだけで、これだけの流れに変わるのだからすごい。

しかし、新聞記者自身もネットからいろいろな情報を得ているだろうから、まったくネットの影響力がない訳ではないだろう。ネット上での様々な議論が下地となって、今回の結果になったのだと思いたい。

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日本2.0

独立国家「日本2.0」の誕生

まず、人口一万人程度の町を選び、「日本2.0」という新しい国家として独立させる。イタリアの中にあるバチカン市国のようなものだ。以前から独立論争がある北海道のどこかの街がいいんじゃないだろうか。

日本2.0はあくまで独立国家なので、憲法や法律も新しく制定する。その際、過去のしがらみを一切捨てて、理想を追求する。例えば、Chikirinの日記にある「やるべきこと10個」は当然取り入れる。電波行政で言えば、マラソン中継に割り当てられた周波数を用途を限定せずにオークションで決めた業者に割り当てる。

ゼロから理想の憲法・法律を検討する訳だが、所詮一万人の国家なのであまり難しい事は考えない。あくまでシンプルな憲法・法律を目指す。足りない部分や制度の設計に時間がかかるものは、日本1.0から拝借する。例えば、天皇制や軍事などは自前で用意しない。通貨も一から作ると大変なので拝借する。その制度の対象となる人間があまりに少ないのであれば、まずは制度なしでスタートしてもいい。

最初は何かとお金がかかるので、国債を発行し、日本1.0政府に買ってもらう。日本1.0政府はそのお金の使途に対してとやかく言わない。

政治や官僚組織だけではなく、経済的にもフレッシュな会社が集まるように、スタートアップを優遇するような制度を導入する。日本2.0では、現在ある多少の問題点よりも将来の無限の可能性を評価し、そういった分野に重点的に投資する。日本1.0にいるやる気のある人間はどんどん移民として受け入れる。

「まずはやってみよう」の精神がトップから民衆まで隅々に行き渡るようになればいい。そのためにも、最初は極力少ない人口で始め、人任せにして安全なところから文句だけを言うような無責任が横行しないようにする。もっと具体的に言えば、政治に不満があるんなら、お前が政治家になれ、ということだ。

もし途中で失敗したら(例えば、ハイパーインフレが起こる、など)、日本1.0が日本2.0を併合する。そうなると今まで通り。日本2.0は実験的な試みとして位置づける。

拡大フェーズと最終型

ある程度国家としての体裁が整ったら、規模を拡大する。周辺の土地を日本1.0から日本2.0に割譲・売却する。買取にかかる費用は例によって国債でまかなう。

また、1万人程度であれば気にする必要もなかった問題が、規模を拡大することによって顕在化する可能性がある。そういった問題が発生した場合は都度制度を見直す。過去の日本1.0で起こった問題を参考にして未然に問題を防ぐことも可能だとは思うが、それだと今の日本と何も変わらなくなってしまうので、なるべく顕在化してから対応方法を考える。

規模が拡大すれば、日本1.0に拝借していた制度を自前でできないか検討する。その際にも、日本1.0からそのまま持ってくるのではなく、あくまで日本2.0ではどうあるべきかをゼロから考える。日本銀行2.0はどうあるべきか?円2.0はどうあるべきか?

そうやって段々と日本1.0から日本2.0へ移行を進めていく。最後には日本1.0のすべてを日本2.0に取り込んで完成。もっとも、日本1.0が2.0に併合されることに抵抗するなら、併合しなくても良い。しかし、そのような旧態依然のままの日本1.0では、いずれ疲弊し、衰退していくことになるだろう。

背景

今、日本は「失われた20年」とも言われる時代を生きている。国家そのものが「イノベーションのジレンマ」に陥っているように思われる。だったら、クレイトン・クリステンセンが「イノベーションのジレンマ」に書いている破壊的イノベーションへの対応方法を、国家のレベルで実践してみたらどうかというのが元々の発想だ。

このままでは日本は本当に一度死ぬ以外に再生の手段がないように思われる。Chikirinの日記の「やるべきこと10個」ですら、今のままでは実現できないだろう。

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